其之四拾九

同日10時25分

某有名忠犬像前、めまぐるしく人が行き来し、いくつもの話し声が重なりあうなか、一際周りの目をひきつける一人の少女が時計と睨み合っていた。
(遅いなあ、もう……)
とっくに約束の時間を過ぎている広場の時計を見上げながらふうっとため息をつく。
「いっそちゃんと起こしてくればよかったなあ……」
さすがにもう起きた頃だろうか、暢気な徹の寝顔を思い出しながら凛は植え込みの石の壁にもたれかかった。普段から一度寝ると簡単に眠りの渦に飲み込まれてしまう徹のことだ。きっと朝にも本当は弱いのだろう。そんなことを考えて口元に笑みを浮かべながら凛は空を見上げた。
「ねえ、君一人?」
突然かかった声と人の気配にハッとして顔を下ろす。
「よかったら俺らに付き合わない?」
「え……あっと…」
見慣れない男が三人。格好は、世間の一般論からすればあまりよろしくはないのだろうが、普段制服のない学校に通っている凛にはそれほど珍しいものでもなかった。それでも自分より頭一つは背の高い男たちに一人で囲まれるというのはいいものではなかった。
「ね?どうせ暇でしょ?」
「いいじゃない。いいとこあるんだけど」
凛がどもっているのに気をよくした残りの二人も関を切ったようにぺらぺらとしゃべりだす。ただでさえなれない状況で相手のペースにすっかり乗せられてしまい、凛は一言も口を開けないでいた。
「ほら、行こうぜ」
「あ……」
遠慮の欠片もなく手をつかまれ、思わず腕に力が入って顔が険しくなる。だが相手が相手。そんなことへでもないでも言わんばかりに一層男が腕を強く引こうとしたその時。鈍い打撲音とともに横で見ていた別の男が地に伏した。
「だめだよおにいさん。そんなんじゃ女の子にもてないよ?」
「あ?何言ってんだよこのガキが」
倒れている男を蹴って横に退かしながら言う少女に、気勢を張って声を荒げる。だが少女はおびえたそぶりなどまるで見せず、その短くも美しい茶髪を指で玩びながら振り返った。
「とりあえずその人を放してもらえるかな?僕の知り合いなんだよね」
「だれが」
そういって右足を蹴り出した次の瞬間、男の視界に少女はいなかった。
「な!?どこに……」
あわてて体制を立て直そうとしたその時。背後に回りこんでいた少女に軸足を崩され、見事に天を見上げて倒れたところを腹部に一撃。男は白目をむいたまま動かなくなった。
「さあ、その手、離してもらえる?」
「いつの間に……」
「あ、動かないでね。僕の指、そこらの安物のナイフよりは切れるから」
いとも簡単に倒された仲間に目が行っている隙に背後を取られた男の喉に白く細い指が押し付けられると、まるで搾り出すかのように鮮やかな血が滴り落ちた。
「ちっ、わーったよ!」
イラついた様子で、しかし確かに恐怖をその顔ににじませながら凛の手を離すと、伸びている仲間を引きずるようにして男は去っていった。
「やっ、大丈夫だった〜?」
「……」
「まったく、嫌になっちゃうよね〜、ああいう奴らって」
黙りこくっている凛を気にも留めずに、ゆっくりと遠ざかっていく男達の背中に舌を出してみせる。二人の周りを取り囲んでいた野次馬達も少女に追い払われ、広場は徐々にいつもの人の流れと騒々しさを取り戻していた。
「……なによ。助けてあげたんだからお礼の一言くらいあってもいいんじゃないの?」
「…ありがとう」
不服そうな朋に、ややためらいながらも凛は礼だけ述べた。
「なんか『不本意ながら』って感じ。まあいいや」
「どうして?」
口を尖らせながらすぐ横に寄ってくる朋の顔を怪訝そうに見つめながら凛がようやく口を開いた。
「どうしてあなたがこんなところに?」
「なに?私がここにいちゃ悪い?」
「……」
恐れの姿さえ垣間見えるその表情をしばらく楽しそうに見つめてから、朋は背中の花壇の上に飛び乗って腰掛ける。
「あなたさあ、逃げるときに智の『出口』つかったでしょ?おかげで智がカンカンでさ〜。ほっとけばいいのにあなたを捕まえるんだって、ってここまではあのオバサンに聞いて知ってるんだっけ?」
「…」
見下ろすような視線で覗き込んでくる朋の目をまっすぐ見つめながら、凛は小さくうなづいた。
「でもさ、あのオバサンの報告じゃああなた、逃げ出した挙句に春日先輩と付き合ってるって言うじゃない。せっかくのおいしいシチュエーションだからさあ……」
っと、そこまで言って急に間を取ると、くるっと半身を返しながら凛の目の前に着地し、口の端を吊り上げて笑みを作った。
「からかいたくなっちゃった」
「…!」
身体を駆け抜ける悪寒に肩を震わせる凛の鼻先につっ、と自分の鼻先をあわせて朋はもう一度小さくつぶやいた。
「そういうわけだから。しばらくよろしくね、ど・れ・い・一号さん?……ククッ…」
押し殺した笑いに身体を曲げながら数歩交代する朋をぼやけた姿で捕らえながら、ピントの合わない凛の視線は宙を泳ぎ、凛の意識もやはりぼんやりと宙を漂っているようだった。
「わっるい!大遅刻だ!」
不意に、睨み合う二人の方に、全く別の大きな声が飛び込んできた。
「姉ちゃんに殴り起こされるまで爆睡してて……」
「徹…!」
息を切らせながら駆け込んでくる、待ちわびた相手の姿に、凛の顔にぱあっと笑顔が広がった。しかしそれもつかの間。自分の横で朋がぺこりと頭を下げたのを見止めた途端、彼女の顔に再び緊迫の表情が広がった。
「あれ?何でこんなところに鷹峰が…?」
「たまたまだよ。ついさっき朋ちゃんとここでばったり会っちゃって…」
「ふうん…」
さっと朋のほうに目を流す徹と無言の気迫を放つ朋の間で、凛は細く息を吐く。そんな彼女のことなど徹は知る由もなく、暢気に朋と世間話に興じていた。
(だめっ、このままじゃ耐え切れない……)
「それよりさっ、そろそろ行かない?誰かさんのせいで遅れちゃったし」
きっとにらみつける朋の視線を痛いほどに感じながら、徹の服にいつものようにつかまる。
「ああ、そうだな。悪い悪い」
徹もすまなそうに頭に手をやりながら凛のすぐ隣へと戻ってきた。朋が放つ気迫は相変わらずだったが、ここまで来れば知ったことではない。凛はとりあえず、目の前の蛇から逃れることで頭が一杯だった。
「じゃあな鷹峰。また明日」
さすがの朋も、徹にまで無闇矢鱈に敵対心をむき出しにするわけには行かないのだろう。片手を凛に引かれながらもう片手を振る徹ににっこりと微笑むと、駅の雑踏の中に消えていった。
……
……………
………
結局、その日の凛は一日中、どうしても目の前のことに集中できなかった。
もちろん徹とのデートはいつもどおりだったし、それどころか久しぶりに挑戦したゲームで見事に徹を打ち負かしもしたが、網膜にくっきりと張り付いた、あの不吉な微笑みは彼女の心をかき乱してやまなかった。
(からかうって……どうするつもりなんだろう?)
日が伸び始めているとは言えまだ春。早くもかげり始めた太陽のぬくもりをぼんやりと頬に感じながら、少し前を歩く徹の背を見つめる。
きっと徹は全て話せば力になろうとしてくれるのだろう。もし彼がそれで自分を捨てるような男ならば、今自分はここにはいない。だが、だからこそ凛は、徹に全てを知られるのが恐ろしかった。生まれて初めて感じたぬくもりの中に、一点でさえもあのときの暗闇の影を落としたくない。
「そういえばさあ」
「ん」
くるっと振り向いた徹に、小首を傾げて応える。
「さすがに後輩の前でアレはないと思うぜ?お前もなんだかんだ言って先輩なんだからさ」
「アレ?」
「ほら…アレだって……俺の服を、さ」
「ああ!」
アレのこと?と笑いながら、徹のそばまでかけていくと、思いっきり徹の服をつかんでやる。
「いーの!私は好きなんだもん」
「……ったく」
半ば呆れているのだろう。それでも、徹は頭の後ろに手をやりながら、何も言わずに歩き出した。
(あのことは……徹は知らなくていいこと…なんだよね)
ふとかげった凛の表情は、真っ赤な夕日の陰になって、徹にはよく見えなかった。