其之参拾弐

十月二十二日 午前10時45分

「おらぁ!どけ〜!」
東京の西のはずれ、背の高い針葉樹が立ち並ぶ林の中。ほとんど舗装されないままの林道を、さんさんと降り注ぐ秋の太陽に照らされて、一台の自転車が宙を舞った。
「のろのろ走るんなら道ふさぐなよ〜」
からかうようにそう言うと、徹は目の前の木のこぶを避けてもう一度大きく跳ねた。
「春日、てめえ!」
あっさりと自分達を追い抜いていったクラスメイトに追いつかんと、3台のMTBがペースを上げたその時。
「どいてどいて〜」
後ろから悲鳴とも取れる声が聞こえた。
「うわぁ!」
バウン!というゴムのはねる音と大きな声。次の瞬間、3台の頭上を飛ぶように、またも白いMTBが追い越していった。
「ゴメンね〜!」
風に髪を舞わせながら、ペースを上げ続ける自転車のハンドルを不器用に操って進んでいく。程なくして現れた曲がり角で、凛の姿も3人の視界から消えた。
「待ってよ、徹〜」
その叫び声だけが3人の耳に届いていた。
文化祭から2週間が過ぎたクラス旅行当日、徹たちのクラスは、西東京の中でもさらに西に位置するある山にオフロードサイクリングにきていた。一周するのにかかる所要時間は平均2時間。同じような類の中ではなかなかハードな部類に位置していた
「ねえ〜、待ってってば!」
「オウ、ちゃんとついてきてたか〜!?」
後ろから聞こえてくる凛の声に、思いっきり声を張り上げて答える。メガネががたがたとゆれるのは愉快なものではなかったが、それでも体に吹き付けてシャツの裾をはためかせる風は心地よかった。
(ん〜、最高!)
すっと目を閉じてその風を体いっぱいに受けようとしたその時。
「わ〜!」
突如、乱暴に後ろから投げつけられた悲鳴のような叫び声。そして……
ガシャーン!
「…いったーい……」
「ムギュウ…」
派手に転倒して絡まった二台のMTBとその上に伸びきった徹の上に、頭を押さえて凛が座り込んでいた。
「大丈夫?」
立ち上がって徹を引き起こしながら、心配そうに凛がたずねる。
「んあ、なんとか」
徹も、服についた落ち葉をばさばさと叩き落としながら言う。
二人がそうしている間にも、後ろを走っていたクラスメイト達が、あるものは冷やかしながら、あるものは心配そうに声をかけながら、二人を追い抜いていった。
「あらら…、こりゃビリケツになっちまったかな?」
よいしょ、と立ち上がると、コースの方に出てあたりを見渡す。
「ごめーん…」
「いいよ。いい加減疲れてきた頃だし。ゆっくり行こうぜ」
うなだれる凛を軽く慰めて、自分のMTBを引き起こす。つられるようにして、同じようにMTBを引き起こした凛が、徹の脇にMTBを止めた。
「じゃあ行くか」
「ん」
そういって、二人は軽く足元の地面を蹴る。でこぼことした山道を、2人の自転車が心地よく滑り降りていった。
「な?たまには自分で自転車漕ぐのもいいもんだろ?」
「そうだね〜」
横に並んで、同じように風を受けながら二人は言葉を交わす。
「なんならたまには凛が俺を乗せてくれるといいんだけどなあ」
「え〜、無理〜」
「そうか?」
「そうだよぉ」
おどけたような声でたずねる徹に、頬を膨らませて答える。
毎朝、後ろに凛を乗せて徹がMTBを漕ぐ姿は、8月から変わっていなかった。
「みんなどれくらい前走ってるのかなあ?」
「さあ?なんなら追いかけてみるか?」
「え〜、ゆっくり行くんじゃなかったの?」
「ハハ!わかってるわかってる」
風に吹かれて、二人の笑い声が後ろへ流れていく。


(……?)
ふと、何かが触れた気がした。

「な!?」
「徹!?」
刹那、何かに引きずられるようにして徹の体が横にとび、凛の止めるまもなく林の中へと消えていった。

ドスッ
「イテッ!」
何が起こっているのかもわからず、飛んでいきそうになる眼鏡を必死に押さえながら林の中を突き抜けること数秒。
徹の体をつかんでいたなにかがその手を離したのか、あちこちに木の根がその頭を覗かせている土の上に、徹は投げ捨てられた。
「なんだ?一体……」
打った頭を押さえながらあたりを見渡す。
あたりに生い茂る、背の高い針葉樹。はるか遠くにうっすらと見える太陽。そこが林の中にぽっかりと空いた空間、ということ以外、徹にわかることはなかった。
「凛ー!」
大声で、ついさっきまで横にいた少女の名前を呼んでみる。
「無駄よ。ここから叫んでも彼女に聞こえはしないわ」
聞き覚えのない、高飛車な声がそれに応えた。すかさず声の主の方へ徹が振り向く。
「始めまして、春日 徹くん?」
すぐそばの木にもたれかかって立つ、一人の女。釣りあがった目と、それに合わせるように尖った顎、すっと伸びた手足に見える妖艶さは、およそ徹の知る全ての女にはない、独特の美しさを持っていた。
「もう少しヒョロヒョロした子を想像してたんだけど。思ってたよりしっかりしてるのね」
「……誰だ?あんた」
クスクスと笑う女に警戒しながら尋ねる。
「あら、ごめんなさいね。私、名前がないのよ」
「何?」
「あなたが訝しがるのもわかるけどね、ないものはないのよ。諦めて?」
なおも微笑を浮かべている女をにらみつける。だが、それすらも受け流してしまうような妖しげな笑みは、徹に嫌な寒気を感じさせた。
「本当は智様には『手を出すな』って言われてるんだけどね」
徹が黙っていると、女の方がゆっくりと近寄ってきた。
「あのコがいなくて寂しいのは私もなのよ。いつも身体が疼いてしょうがないの。だ・か・ら」
徹のすぐそばまで寄って立つ女。その顔を徹が見た次の瞬間。
ゴスッ!
「う゛!」
「せめてあのコを私から奪ったあなたを代わりに虐めさせてもらうわ」
一瞬で蹴り飛ばされた徹は、背後の木を頼りに、女のハイヒールの先端で蹴りつけられた腹を押さえる。ここに来る途中に木の枝にでも当たったのか、腕にもいくつかきり傷がついていた。
「な…にを、訳のわからないことを……」
「訳のわからない?とぼけないでよ」
再び繰り出された右足のミドルキックを捌いた徹の背中に、逆の足が見事に食い込む。
「カハッ……!」
「なによ、数時間見てただけでもあんなに楽しそうにしちゃって。あのコを笑わせていいのも泣かせていいのも私と智さまだけなのよ?」
痛みで動きが鈍る徹に、容赦なく女の足が襲い掛かる。
「智?泣かせる?…クッなんのことだ…ガッ」
その蹴りの応酬を身に受けながら、徹が口を開く。
と、今まで容赦なく繰り出されていた女の足が不意に止まった。
「あなた。まさか本当になにも知らされてないの?」
「だから……なんのことかって…言ってんだろ…」
「……」
「………」
「…プッ、ハハハハハハ!」
しばしの沈黙。それを破って突然女が笑い出した。
「……なにがおかしいんだ?」
「ほんっとになんも知らされてないんだ!ハハハ、こりゃ傑作だわ」
黙り込んだ徹には目もくれず、女はしゃべり続ける。
「あなたかわいそうな子ね。なにも知らされずにあのコの世話焼いて、何も知らされないうちに巻き込まれて私に襲われて」
そらにも届くのではないかというほどの声で高笑いを続ける女。ふと、その顔に危険な笑みが浮かんだ。
「そうよねえ、あのコがなにも教えなかったせいであなたが襲われるなら……もうすこし重症の方があとで面白いわよね。ね、そう思わない?」
ぐっと近づいた顔に、徹の背筋が凍りつく。
「きーめた!もうすこし派手に痛めつけてあげよっと」
そういうと、女がパンッと手を打つ。次の瞬間、そこに人の腕と呼べるものはなかった。
「!」
女の右肩からグニャリと伸びた、長い何か。中世西洋の鉄球つき棍棒に似たそれは、紛れもなく女の体から生えていた。
「せめてもの情けで、眠らせといてあげるわ。もういちど目覚められるといいわね。ぼ・う・や」
次の瞬間、突然視界の中で動いたものを徹が確認するまもなく、何かが強く徹の後頭部にあたり、徹の意識は一瞬のうちに薄らいだ。
(なん……だ?)
薄らいでいく意識の中、今度は人の身の丈の半分はあろうかという大鉈に姿を変える女の腕。近づいてくる女の足音に『死』の感覚が近づいてくるような気がした。
と、突然。振り上げられた女の腕が止まった。もはや普段の半分程度しか確保できていない視界の隅に、なにか光るものを見た。
(り……ん…?)
そして、徹の意識は闇に落ちていった。