其之参拾壱

同日 午後5時30分

「今日はここまで!解散!」
いつもどおりのテニスコートに、いままでとは違う声が響き渡る。
つい一週間前までは練習が終わってもまだ明るかったテニスコートもいよいよこの時間には暗くなるようになり、高く掲げられた照明の明かりがクレーコートの黄土色を明るく照らし出していた。
「ふぃ〜。相変わらずキツ〜」
徹はラケットを手にしたままその場に倒れこむと、天を仰いで声を上げた。
「何言ってるの。涼しい分前よりましでしょ?」
呆れ顔で上から見下ろす凛に、そうだけどさ〜と駄々をこねる真似をしてみせる。
凛は文化祭の件のこともあって、もうすっかりテニス部に溶け込み、最初の頃のようにあからさまに彼女に反応する男子部員もいなくなっていた。
「ほら、いつまでもそんなところで寝てたら風邪引くよ?」
そういって突き出された腕につかまりながらも、あいている左手で体を押し上げながら立ち上がると、汗のせいもあってべったりと背中についた砂をばさばさと叩き落とす。
「あちゃ〜、砂だらけ」
「コートのど真ん中に倒れこむからでしょ?」
軽口をたたきながら笑う徹。ふとその視界をすっと横切る、見慣れた横顔が目に付いた。
「……なんつーかさ、最近佳織って元気なくないか?」
「え?うん……そんな気がしなくもないけど……」
コートの隅、部室の前のベンチに座ってラケットを片付ける佳織の姿を、二人で遠巻きに見つめる。
「裕行君がいなくなったからかなあ?」
「あ〜、そういえばアイツなんだかなんだ言っていつも三木先輩のそばにいたしなぁ」
「たいていいつも二人で騒いでたしね」
「まあ…な」
そういって、つい一昨日まですぐそばで騒いでいた裕行の顔を思い浮かべる。
毎年のことではあるが、徹にとって最高学年の引退という恒例行事はいつになっても慣れられるものではなかった。
「……佳織ちゃ〜ん」
そっと目配せをかわすと、凛がその名を呼びながらすぐそばまで駆け寄る。
「なに?」
「いや、えーっと……」
次の言葉が出てこない。凛が言葉をさがして戸惑っていると、あとからついてきた徹が凛の横をすりぬけて立ち止まった。
「よっ!ここんとこお前元気ないじゃん。どうかしたか?」
「え…」
「ちょ、ちょっと…!」
あわててウェアのすそを引っ張る凛に、『大丈夫』と手で合図すると、言葉を続ける。
「もしかして三木先輩がいなくなって寂しいとかか?」
「な……!」
これにはさすがの佳織も耳をほんのりと赤く染め、目を見開いて抗議の表情を示して見せた。
「そ、そんなことありませんよ!何言ってるんですか?」
「え〜、そうか?」
意地悪く間延びした声で聞き返す
「そうです!もう…それだけだったら失礼していいですか?」
「おう、まあそれならいいんだけどな」
肩をいからせ、耳をまだ赤く染めたままで佳織が部室の中に消えると、横で一層強く、凛がウェアの裾を引いた。
「ちょっと、アレじゃストレートすぎじゃあ……」
「だーいじょうぶだって。ああいうときにはアレくらいストレートに言ってやって逆上させてやるくらいがちょうどいいんだよ」
疑わしい、という顔をする凛の頭をポンポンと叩いて続ける。
「あれで逆上するようなら心配ないからな。まあ余計落ち込んだりしちゃうと重症だけど」
「……そんなもんかなあ?」
「そんなもんだ。ほら、俺達もそろそろ帰るぞ」
「え?あ、うん」
先に歩き出した徹にあわてて凛がついていく。いつの間にかコートには誰もいなくなっていた。


同日 午後8時10分

「……よし、と。今日はここまでだな」
詰まれた荷物を左右に掻き分け、辛うじてノートを広げられる程度のスペースを作り出した机。その前に、風呂上りの凛と並んで座る徹が、真新しいノートにペンを入れる。
その日から学校にいる時間帯は事務の仕事をするようになった凛は、必然的に学校の授業を受けられなくなる。だが、身元がわからないとはいえ恐らく彼女も中学生。全く勉強しないのもいかがなものかという芹山の意見もあり、こうして徹がその日の授業の内容を凛に教えることになった。
凛も思いのほか乗り気で、その熱意に徹が驚かされるほどだった。
「それにしても勤勉よね〜。中学のときの私だったら絶対そんなことしてないわ」
徹の横で、同じく風呂上りの髪にバスタオルをかぶり、Tシャツにハーフパンツという格好で徹の―凛のものになりつつある―ベットを占拠する巴が口を挟む。
「てーか何で姉ちゃんがここにいるんだよ」
「いいでしょ〜。この部屋が一番風の通りが良くて、風呂上りには最高なのよ」
悪びれる風もなく言うと、片手で首の辺りを扇いでみせる。
(全く……)
「そういえばどんな感じなんだ?事務のアルバイトって」
巴に軽くため息をついて見せると、凛の方へ振り向いてたずねる。
「う〜ん、私が任されたのは学校のホームページの管理がメインかな。あとは栗原さん達が持ってくるデータを打ち込んだり。パソコン関係は全部私の仕事みたい」
「うへ、キツソ…」
思わず想像して、すぐさま頭の中からかき消す。
データの打ち込み程度なら何とかなるかもしれないが、私立校でも群を抜いて手の込んでいる上丘のホームページの管理など、パソコンについて平均知識より少し進んだ程度の情報しか持ち合わせていない徹にはとてつもなく困難な仕事に思えた。
「それにしてもひどい男よね〜」
ふと、再び横から巴が口を挟む。
「自分の都合であんな騒ぎ起こしたあげくに、それが原因で顔晒しちゃったからって今度は女の子を働かせるんだから。なんだっけ?『俺はこいつ』……」
「あー、もう。うるさい。その話題はいいから!」
巴が言い終わる前に無理やりベットから引き摺り下ろすと、そのまま部屋の扉の方まで押していく。
(なんでよりによってアレを姉ちゃんに聞かれちゃうかなあ……)
そう考えると、自分の不幸さ加減に泣けてくる。
後でわかったのだが、あの日、つまり文化祭最終日。巴は同じ大学の上丘出身者で集って文化祭にきていたのだ。上丘の文化祭、しかも最終日に来ておいて一番の目玉、フィーリングカップルを見ないOB、OGはいない。それはもちろん巴たちも例外ではなく……
「凛〜、あんた苦労するわよ〜こんな男彼氏にしたら。なんせ自分の姉貴にすら負けるんだからね〜」
「うるさいってば。酔ってんのかあんたは」
徹を無視してしゃべり続ける巴を部屋の外に追い出すと、そのまま閉めた扉に腕をついて、フウッっと大きく肩で息を吐く。
「巴さん相変わらずだね」
「笑い事じゃねえよ、俺はアレにもう15年つき合わされてるんだぞ?」
楽しそうな凛の声に答えながら振り返る。
「それより、今度の土曜日は事務の仕事休むって栗原さんに伝えとけよ?」
「え?なんで?」
おそらく今の徹と巴のやり取りを面白がってみていたのだろう。隠し切れない笑顔を必死に隠しながら凛が首を傾げて見せた。
「いやな、その日クラス旅行があるんだよ。お前も行くだろ?」
上丘学園では毎年、文化祭があけてしばらくした頃にクラス旅行という日帰り旅行がある。中2と高2はそのときに一学年合同で修学旅行に行くので「クラス」旅行とは行かないが、ほかの学年は毎年、各クラスで決めた場所に日帰りで行くのが恒例になっていた。
「旅行?行く行く」
もちろん!とでも言わんばかりの顔で大きくうなずいてみせる。初めの頃より口数が多くなったことを除けば、この嬉しそうな顔は凛が徹の部屋に居候するようになったときから変わっていなかった。
「オッケ。それじゃあまあ新しくなにか決まったら教えるから」
「うん♪」
すでに弾んでいる凛の声を背後に聞きながら徹は箪笥を乱暴に開けると中から寝巻き一式を引っ張り出す。
「そんじゃ、俺風呂入ってくるから。ま、いつもどおりに頼むよ」
「わかった」
そしていつものようにそっと扉を開けると、あたりを確認しながら廊下に出る。
扉を閉めるときに巴が部屋にもぐりこむのを徹は見逃してはいなかった。