其之参拾

同日 午後0時01分

学校の本校舎から事務所塔へと続く渡り廊下。その中ほどを徹と凛が肩を並べて歩いていた。
廊下の窓から見えるグラウンドは、文実の早朝からの解体作業のかいもあって、徐々に普段の表情を取り戻しつつあった。
「でもさ、事務の仕事って何するのかな?」
「さあ?俺にはわかりかねるけど」
そのままではあまりに人目につきすぎるから、と徹がかぶせた帽子の影から話しかける凛にいつものように返事を返す。
徹にしてみれば気持違和感がないわけではなかったが、凛がいつものように接してくることもあり、昼前には二人は昨日までと同様に言葉を交わしていた。
「…っと、着いた」
廊下を渡りきって歩くこと数秒。やあ大き目の引き戸の前で立ち止まると、徹はその扉に手をかけた。
「失礼しまーす」
「失礼します……」
二人とその声を、廊下とは違う、どこか暖かい空気が迎える。
「はーい」
ちょうど人の影を探し始めた徹の耳に、耳辺りのいい女性の声が聞こえた。
「あら、生徒は勝手に入っちゃいけないはずだけど……?」
「あーっと、芹山先生から話が行ってると思うんですけど……」
不思議そうにする女性の目の前に芹山から預かった、(端に切れ込みの入った)書類を見せる。
「ああ…、じゃあ貴女が?」
「はい、凛・フェルマーです」
「そう、わかったわ。とりあえず中へどうぞ。立ち話もなんでしょ?」
その女性に促されるがままに、二人は事務室の奥へと入っていった。



「オッケイ。まあ芹山先生から聞いてた通りね」
徹と凛の向かいに腰掛けた、栗原と名乗ったその女性は、やや目を細めながら手元の書類に何かを走り書きしていく。
「じゃあ凛・フェルマーさん。早速で悪いんだけど今日からよろしくお願いしますね」
面接まがいの会話の節々での情報を整理すると、どうもこの学校の事務室はもともと、パソコンに強い人がそんなに居らず、今までは一人のひとにまかせっきりにしていたらしい。
ところがその人が昨年度で定年退職となり、その方面に強い人間がいなくなったことで事務室はかなりの苦行を迫られていたそうだ。
そこに不意に芹山から普通よりも安い賃金で働き、パソコンに強い人間がいるということを聞き、ろくに条件も聞かずに二つ返事でOKした、というのが正直なところのようだ。
「それにしても……芹山先生から聞いてはいたけど、本当に子供なのね。13か14歳ってところ?」
「あ、はい…」
「ふうん…。まあ芹山先生に釘刺されてるから深くは聞かないけど、気が向いたら詳しく教えて頂戴ね」
やけにあっさりと凛の返事を聞き流すと、僅かに目元に微笑みの影を浮かばせながら言う。
凛も拍子抜けしたのであろう、困ったような目で徹の顔を見つめてきた。
「あの…栗原さん?」
凛の視線にあいまいな目配せで答えると、自分の分の紅茶に手を伸ばす栗原に声をかける。
「はい?」
「芹山…先生はなにを条件にしたんですか?」
「え?」
「だってそうでしょ?普通凛みたいな歳の女の子雇ったりしないだろうし、仮に雇っても学校に隠すのって結構大変なんじゃあ……」
「ああ、そんなこと?」
なーんだとでも言わんばかりの顔で言うと、手にしたカップを机に戻す。
「凛ちゃんの賃金くらいなら、事務所で自由に使えるお金で十分まかなえるし、あなたも知ってるでしょ?ここって生徒の通ることがほとんどないから、凛ちゃんが見つかることもまずないのよ」
「でもなんで……」
「最終的に決心したのか?」
横から口を挟んだ凛が言い終わる前に、先回りするように続ける。
「だって……ねえ?」
「ねえ……?」
頬をやや赤らめる栗原と、何のことかわからないという様子の凛。間に挟まれた徹の脳裏に確信めいたものがよぎった。
「もしかして、引き受けたらデートとか言われました?」
「え……ぅ…何でわかったの?」
「いや、なんとなく」
顔を真っ赤にしながらも問い返す栗原をはぐらかして、自分の紅茶に手を伸ばす。
芹山と親しくしていれば、いやでも彼の熱心なファンとの接し方も身につく。もしもここで「あいつならいいそう」などと答えたらどうなるか、徹には容易に察しがついた。
「あらら、もうこんな時間だ」
ふっと見上げた時計の時刻を確認すると、徹はあわてて立ち上がる。
「えっと…じゃあ俺はもう戻るから……」
「あ、うん」
凛を椅子に残して一人立ち上がると、横でまだ座っている凛に声をかける。
「それじゃあ、凛のことよろしくお願いします。放課後にまた来ますんで」
「あいあい。行ってらっしゃい」
頭を下げる徹に、栗原は片手で軽く応えた。
「じゃあ、な」
「うん」
最後に凛と軽く言葉を交わすと、徹は一人、扉を開けて廊下に出た。
(これでとりあえず一安心、か)
肩の荷がひとつ下りたような気持で、あわただしく人が行き来する廊下を、教室の方へと歩いていく。
同じ頃、結局自分で昼食を買いに行く羽目になった芹山が怒りに肩を震わせていたことなど、徹には知る由もなかった。