其之弐拾九

十月十一日 午前10時28分

「えー、余弦定理より①は2BCcosαなので……」
もうほとんど残っていない枝の葉がまた一枚宙に舞い、秋空の只中に映える。
チョークで左手を白く染めながら板書を続ける芹山の背をぼんやりと眺めながら、徹はゆっくりと忍び寄る眠気の中を漂っていた。
ネム……)
あくびをかみ殺しながら、ふっと右隣で黙々とノートを取り続ける凛の横顔を眺める。
(ホントに大丈夫なんだろうな……)
凛のことを見ていると、徹の脳裏に一抹の不安がよぎる。
例の一件で凛は全校の大多数の人間に顔を知られてしまっている。もしそんな状態で凛が登校していることが発覚すれば、場合によっては凛の素性を探られることにもなりかねない。ましてそれが保護者に漏れでもすれば……徹と凛にしてみれば一大事である。
同じことを懸念したのか、朝から人を呼び出した芹山曰く「どうにかしてやる」そうなのだが……。その内容をまるで知らない徹には不安を拭いきれない節があった。
「ん……どうかした?」
「あ、いや。なんも」
徹の視線に気がついたのか、凛が振り向いて小首をかしげる
(ま、あとで聞いてみるに限るな)
いつの間にかずいぶんと先の方まで進んだ板書をあわてて写す。
冬の気配を帯び始めた風が廊下を抜けて吹き込んでいた。

「で?どうにかってどうするんだよ?」
いつかと同じ、教員室の中の応接室の中ソファーに腰掛けて徹は芹山に訪ねる。
「俺が言うのも変な話だけど、前みたいに1クラス押さえるのとは訳が違うだろ。例のことで凛はかなりの人間に顔見られちまってるし……」
「わかってるならあんな派手なまねしてくれるなよ……」
芹山は呆れたように徹を見下ろしながらコップにコーヒーを注ぐと、音を立ててすすりながら窓の下を覗く。
「まあな、確かに凛ちゃんのような場合、普通なら警察に連絡してしかるべき機関が預かるのが当たり前だからな。それだけでも反対されそうなもんなのに、彼女の場合生徒でもないのに授業まで受けちゃってるし……。ばれたら即アウトなんだよな」
言いながらからになったコップを机に置くと、徹の向かい側に腰掛けた。
「おまけに誰かさんがひどい騒ぎ起こしてくれたおかげで、今まで見たいにこっそりって訳にも行かなくなった」
「だからどうにかしてくれって言ってるんじゃねえか」
「……」
フーっとため息をつくと、芹山は思いっきり後ろに倒れこんで、背もたれに体を任せる。
「まあ、な。凛ちゃんのためだし、一度した約束でもあるからな。ちゃんと手は打ったよ」
手元のサイドテーブルから一枚の書類を取り出すと、ほれ、と徹の目の前にかざす。
「採用…証明書?……なんだこれ」
「見ての通り。この学校の事務のアルバイトの採用証明書」
ポカンと口をあけている徹の目の前をすり抜けるようにして立ち上がると、もう一度コーヒーを注ぎに行く。
「彼女パソコンの扱いうまいんだろ?今うちの事務室そういう人材凄く欲しいらしいからさ」
「いや、そうだけど……。凛の年でどうやって?」
「はっ。俺を馬鹿にしてるのか?」
注ぎなおしたコーヒーのコップを持ってもう一度机に腰掛けると、足を組んで徹の顔を覗き込む。
「用はあの子が学校にいることに文句を言う理由がなくなればいいんだろ?事務室で働かせちまえばほかの事はどうにでもなる」
(また女使ったのか……)
「はあ、さいでっか……」
目を閉じて小さくため息をつくと、徹はソファーから立ち上がって部屋の扉に手をかけた。
「おいおい、まさかこれだけのことをタダ働きで済まさせるつもりか?」
今にも扉を開けようとする徹を、芹山の声が制止する。
「……今度はなにか?」
振り返らず、うつむいたままで問いかける。
「心配すんな、人の女を盗る俺じゃねえよ」
からかうようにそういうと、徹の背後に歩み寄って右手を軽く徹の肩に乗せる。
「これから一週間、俺のぱしりになれ」
「は!?」
思わず大声を上げて振り返る。
「仕方ねえだろ。凛ちゃんに手出しできない以上これくらいしか……な?」
「な?って……」
「お?じゃあこの証明書はいらないのかな?」
そういって、徹の目の前で真新しい書類の端に小さな切れ込みを入れてみせる。
「あー!わかったよ!やりゃいいんだろ?」
「わかればよろしい」
満足そうに言うと、手にした書類をおろす。
「ちぇ……」
「まあそういうなよ。俺だって苦労したんだ」
ニコニコと笑って言う芹山の顔を憎らしげに睨み付けると、もう一度扉の取っ手を握って徹は部屋の外に出た。
「あ、昼休みに事務室に行くように伝えといてくれよ〜」
ふらふらと歩いていく徹の背を笑顔で見ながら、芹山はもう一度大声で叫んだ。