其之弐拾壱

同年 10月7日 午前10時14分

文化祭前日、最後の準備のために授業がないので、朝から校内は歩き回る生徒や、工具が鳴らすリズミカルな音があふれていた。
夏休み明け一ヶ月のこの時期に開かれることもあり、いまだ準備が終わらない団体が多い中、テニス部だけは違っていた。
「よーし、完成!」
校舎の中、色とりどりに飾られた教室の前の廊下に、満足そうな裕行の声が響く。
部屋の中はレンガのような茶色を基調にした布が張られ、白いテーブルクロスを敷いた机が並べられていた。
「なんだかんだでメニューも11まで増やしたし。まあいい感じだな」
「でも丸山先輩、本当に大丈夫なんですか?」
何一つ疑わずに喜ぶ裕行の後ろで、心配そうに佳織が振り向く。
「まあ大丈夫よ」
丸山と呼ばれた高二の女子部員―調理練習の責任者を務めていた―が答える。
「わりと全体の効率もよくなったし、最悪凛ちゃんにがんばってもらえばいいしね」
にやっと笑ってそう答える。だが、これには西谷が黙っていなかった。
「な!お前ら凛ちゃん厨房に入れるつもりだったのか?」
「当たり前じゃない。でないと仕事にならないわよ」
当たり前、という顔をして丸山が答える。
「だめだ!」
「は?」
「凛ちゃんはウェイトレス!せっかくの客寄せが居るのに、それを無にするつもりか!?」
その瞬間、その場に居た全ての男子部員が固唾をのんだ。
「先輩、それは私たちに喧嘩売ってるんですか?」
「へ?」
いつもより一段低い佳織の声に、西谷がはっとして振り返る。
「そうよねえ」
「りんちゃんがいないと客寄せはできない、と……」
「へえ…」
店内係の女子部員達が西谷の方へにじり寄る。
「あ゛〜、ごめんなさい。言い過ぎました」
身の危険を感じ素直に謝る西谷。だが、女子部員達は佳織を先頭にワッと西谷の方へ走り始めた。
「うわぁ!」
西谷もすぐさま踵を返して走り出す。
「待ちなさーい!」
木のぶつかる音や、紙がこすれる音をかき消して、その足音と声は廊下に響いた。

「ふうっ、全く……」
まだ西谷を追いかけていく一段から離れた佳織が、小さく息をつきながら裕行の横に戻って来た。
「おっ、終わったか?」
「ん〜、まだ続いてるけど先に抜けてきた。このあとはどうするの?」
「そうだなあ、調理組はさっき調理室に降りたけど……ほかの奴はもう特に仕事無いよな〜」
教室の中を観察することにもいい加減飽きたのか、廊下をぷらぷらとうろつきだす裕行を佳織は呆れ顔でため息をつきながら見る。
「あ……」
ふと、裕行の背から視線をそらすと、佳織はあたりを見回す。
「ねえお兄ちゃん。春日先輩は?」
「春日?この辺にいると思うんだけど…………いないな」
きょろきょろとあたりを見渡す裕行の視界に、徹の姿はなかった。
「どこいったんだ?あいつ」
「……どうせ暇だし、探してあげよ」
「それも、そうだな」
そういって、裕行と佳織は肩を並べて歩いていった。
………
……テニス部室
…………
「みーつけた」
「やけにあっさり見つかったな」
部室に入ってすぐのところに並んで立って言う。その二人の目線の先に、ベンチに仰向けに寝転がって眠る徹の姿があった。
「せーんぱい!こんなところで寝てたら風邪引きますよ〜」
佳織が耳元でそう言うものの、徹は起きる気配が無い。
「おら!起・き・ろ!」
見かねた裕行が頬をつねって引っ張る。さすがの徹もこれには耐えかねたのか、うっすらと目を開けた。そして……
「いってえ!」
「ほう、やっと起きたか」
徹が大声で叫んだのを確認して、やっと裕行は徹の頬を離した。
「何やってるんですか?こんなところで寝ちゃって」
眼鏡を拭く徹の横から佳織が話しかける。
「いや、今朝はあまりにも眠くてさ……看板出来上がってからずっと寝てた…」
「あー、そういえばお前、今朝かなり早くから来てたな」
まだ瞼が垂気味の徹の顔を見ながら裕行が言う。
「ああ、どうもあの看板がうまくいかなかったもんで」
「え?でもアレって今月の頭から書き出したはずじゃあ……」
確かに、テニス部の喫茶店の入り口に立っている看板―喫茶店の中にウェイトレスが一人立っている絵が書かれていた―は、十月の初めに佳織から受け取ったまっさらの看板と同じものだった。
「ああ、そうなんだけどどうもうまく行かなくてさあ……昨日は7時半まで残ってたし、今日は7時に来て描いてた……」

「はー、大層なこって」
大きくあくびをする徹の顔の前をうろうろとうろつきながら裕行が言った。
「……そういえばあの看板の女の人って凛ちゃんに似てますよね?」
ふと、徹の横で佳織が思い出すように上を見ながら言った。
「なんだと?」
すかさず裕行が反応して徹の前まで歩いてくる。
「ほら、だってふさふさしたロングヘアーだったし、顔の感じもなんか似てたじゃない」
「そういえばそんな気がしなくも無いな」
「そうですか?」
一人、心当たりが無い、とでも言うようにする徹の横で、佳織と裕行がしきりにうなずいている。
「まあ家にいるときはほとんど一緒にいるわけですから似てもおかしくはありませんけど……」
「え?」
「何ぃ!?」
「え、なんですか?」
突然の徹の一言で、佳織と裕行の表情が固まった。
「お前、家で凛ちゃんと同じ部屋にいるのか?」
状況を飲み込めていない徹に裕行が詰め寄る。
「はい、まあ……」
「……嘘」
横で佳織も、信じられないといわんばかりの表情をする。
「え、だってそうしないとウチの親に見つかっちゃうかもしれないし……」
「お前なぁ?」
突然、裕行が徹の両肩をつかむと、その目を見つめて言う。
「あれだけかわいいコが同じ部屋にいて、なんか思うことは無いのかよ?」
ガクガクと徹の方を揺すりながら早口にまくし立てる。
「そ、そりゃあたまにはありますけど……」
「けど!?」
「アイツどう見たってせいぜい中二だし……いっつもすぐに自分で押しとどめてます……」
「当ったり前だ!凛ちゃんに手つけたりしたら……」
「オチツケ」
裕行の頭を机の上に置いてあったプラスチックファイルで叩いて黙らせると、佳織は徹の方へ向き直る。
「先輩。私が言うのも変ですけど、凛ちゃんの歳とかあんまり気にすること無いと思いますよ?ああ見えてもしかしたら先輩と同じくらいかもしれませんし」
「……そんなこと俺に言って、お前は何を期待してるんだ?」
「い、いやあ〜、別に何にも期待なんかしてませんよ」
ハッとして、佳織はあわててそう答えると席を立つ。
「……でもひとつだけ先輩に教えておきますね。今月の一日、先輩に看板を渡した後で私、調理室にも行ったんですよ。その時凛ちゃんが言ってました『徹はどんな感じ?』って。先輩と同じこと」
「……ハア」
徹はポカーンとして佳織の顔を見ている。
「じゃ、私達はもうほかに用があるんで行きますね。ほら、行くよお兄ちゃん」
佳織はあたふたと自分の荷物をまとめると、ファイルの角が当たったのか、痛みにもだえている裕行の手を引いて部室を出て行った。