久々にレビュー

王子護め。

 いろいろ考えながら読んでたのに、最後の数ページで僕の頭の中の「感想.txt」の中身がこの一言に書き換えられてしまいました。
 いや、それにしても、狭窄な自分の知識だけで言わせてもらいますと、これほど現実への志向性が作品、現行のラノベの中ではなかなかに珍しいんじゃないでしょうか。抽象的な人間、行動原理云々という意味ではなく、もっと現実的、社会的な意味において。たぶん、設定のそこかしこに過去の固有の事象を盛り込んでみたり、現実世界と作品内世界が論理的に矛盾しない設定が組んであったり、という辺りがその辺りを助けているのでしょうが。
 で、以下、円環大系の昔話を読んでいる辺りで思った事を、その場でメモった通りに書きだしてみるテスト。
(コピペ開始)
 人が「大きな物語」の中にいたとき、現実とはきっと逃げ出しがたい自然災害のようなもので、『舞姫』のように、その前にひれ伏すしかなかった。しかし、どこかの時点でその「大きなもの」のわかりやすい形だった社会の観念が変化した。さまざまな社会の混成体の中で、その全てを統括する広い「世界」は個人の認識の手が及ばない遠くへ離れてしまった。そして、「小さな物語」があらわれた。ところが、どんなに瑣末な日常やその中での愛やら哲学やらを語ってみたところで、どこかで、それらとは関係なしに襲いかかる、個人の域を超えた、化け物じみた天災の存在に気づかざるを得ない。多分セカイ系はその抑圧の再確認。そしてそれを経てあらわれたのが、個人の論理、「小さな物語」の中で語っていたあれこれを手に、世界に対してぶつかっていく存在。多分、決断主義書いた時点ではうろ覚えで自信なかったんですが、あってましたね;)もこの列にある。ただ、この類の物語における欠点は、設定部分、根本的部分においてフィクションでしかありえないこと。用いられる集団、あるいは決断の過程で切り捨てられるものがあまりにも大きかったり重かったりして、現実との間にどうしようもなく厚い壁を築いている。セカイ系の場合は、どうしようもない化け物のような外圧が示せれば良いのだから、それでも良かった。でも、その外圧に向き合う術までもが現実離れしすぎてしまってはいけない。
(コピペココマデ)
んー、改めて読み返すと突っ込みどころもごろごろしてる気がしますが、とりあえず良いや。
まあ内容の如何はともかくとして、ぱっと浮かんだ勢いでそこそこ真面目にこんな事を考えながら読み進めていたのに、最後の数ページで全部まとめて王子護がもってっちゃってくれたわけです。チクショウ。